春日部セントノア病院

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2012年7月

『精神科医歴、間もなく五十年』
 私が精神科医として、人生の2/3近くを歩み始めた頃(ここに働く皆さんの半分程度はまだ生まれていなかった?)からの話です。
私達が大学に入った時は安保闘争の最盛期、授業もそこそこに国会までデモに行く日々でした。忘れもしない一九六〇年六月十五日、デモ隊が国会に突入する日、文学部の樺美智子さんが機動隊にまき込まれて亡くなりました。間もなく学生の敗北、左翼運動の激化。そんな風の中医学部の授業は淡々と進み、卒業を迎えました。しかし医学部生に残ったエネルギーはインターン闘争へ向いました。「何故、司法試験に合格した者は給料を貰い修業をするのに、医師国家試験に合格した我々はタダ働きをするのか?」大儀の御旗はその事でした。私達の世代は国のインターン制度を無視して自ら選んだ研修を行いました。一年後輩の赤坂前理事長の世代はその運動は更に激しいものになっていた筈です。我々の世代は無事各医局に入局。私は不器用で頭脳鈍重、ただ読書が好きで、そこに出てくる狂人に共感を覚え精神科に進みました。その時年長の先輩に「精神科に来るなんて勇気あるね」とからかいとも軽蔑とも分からぬ皮肉を言われたものです。当時の精神病院は座敷牢の延長のようで畳の部屋に何人もの患者さんが詰め込まれ、治療といったら十数年前に出た二〜三種の向精神薬の投与、電気ショック、インシュリン治療でした。やがてインターン闘争は医局講座制反対運動となり、精神科医局はその最先端で私が入局して一年十ヶ月で医局は真っ二つに割れ、反対派は病棟に残り、賛成派は外来へ行きました。私はそこで医局を離れ日赤中央病院(今は日赤医療センターといいます)で研修の続きをする事になりました。当時日赤中央病院は実に広々として樹木がうっそうと繁り、病棟は全て平屋で外来と病棟は小型の自転車で行き来する時代でした。当時の部長が頑張って精神科には十八のベッドがあり、全開放でその頃は“天国のような”と患者さんが言う病棟でした。作業療法も空き地に畑を作ったり近所の緑豊かな所に散歩に行く治療環境でした。しかし国は発展と称して弱者には冷たい方向に進んで行き、広々とした土地は『日本列島改造論』のもと半分以上を安価に買い取られ、平屋の建物は十一階建てのビルに変身。精神科はそこの職員達の希望で他科と同じ構造の開放病棟が十階に出来ました。「精神科を差別しない」という思いで出発したのです。開放病棟でしたので、自死念慮の強い人、幻覚や妄想のため自らの行動をコントロールできない人、痴呆症状のため迷子になってしまう人は扱う事が出来ませんでした。しかしいつの間にか日赤本社からの病院への援助は無くなり、独立採算制になると、精神科は収益が上がらないという事で私達の反対も空しく平成十一年に病棟は閉鎖されました。が、外来はいつも混み合っていて一日に五十〜六十人の患者さんを診、他病棟に往診に行く多忙な日々は続きました。儲けが少ないので医者も少なかったからです。そんな明け暮れの中、あっという間に停年を迎えました。ゆっくりした日々を過ごす予定は未定となり、赤坂先生や局長さんが理想の『認知障害を持った人達のための病院』を造ったことを知り、お手伝いが出来ればという思いで春日部セントノアに来る事になったのです。三月三十一日まで日赤で働き、四月から早速セントノアで働く事になり、初めて訪れた病院に足を踏み入れた瞬間、玄関のデザインの美しさ、水が流れ花々が華やかに飾られている光景に、ふと“天国のような病院”という大昔の患者さんの言葉が思い浮かびました。天上からは綺麗な音楽も流れてきます。「ここで私の精神科医としての最後を送ろう」と思いました。その日から七年の月日が流れ、私はここで働く人達の患者さんへの思いやりや優しさにふれながら、今も気持ちよく仕事に励んでいます。

 

医師  新名 郁子